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2018.6.6

失われた20年に生まれた女子のベトナム・ダナン生活

拉致され、フランスで生きることを決意した女性②

AIKO

AIKO

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こんにちは!AIKOです!

本日は前回の記事の続きをお話したいと思います!

祖母は夫にすら、50年間一度もベトナムの話をしませんでした。

「自分のルーツを知りたい」

そんな思いで彼女の息子たち(旦那の母の兄弟)は自ら自分のルーツを調べました。

やっとの思いで探し当て、家族でベトナムに会いに行くこととなりました。

せっかくの思いで探したにも関わらず、祖母は頑なにベトナム行きを拒み続けます。

祖母をなんとか説得し、やっとの思いで実現したベトナム行き。

子供達にとっては初のベトナム。

初めての文化。

子供達、孫たちは、感慨深い思いでした。

しかし、祖母にとっては、50年ぶりの家族との再会にも関わらず、どこか浮かばれません。

10歳でフランスに来たので、ベトナム語も既に忘れてしまったようです。

ベトナム側の家族は、祖母の再会に心から喜んでしました。

フランスに帰国してから数日。祖母は毎晩悪夢にうなされていました。

「2度と私の目の前でベトナムの事を話すんじゃない!」

しまいには、兄のことを、「あいつはクソだ」と言う始末。謎に包まれたままでした。

祖母はそれ以来何も語ることなく、亡くなってしまったのでした。

それから数年後、子、孫たちで再びベトナムを訪れることになりました。

ふと親戚たちの集まりで、祖母と仲の良いいとこが初めて顔を出していました。何やら彼女が手紙の束を見せてきたのです。

たくさんのベトナム語の手紙。差出人は、祖母でした。

「私は無事に元気でやっているよ」

「孫が生まれたよ」

祖母はベトナム語を忘れていませんでした。むしろベトナムへの思いは、本当は非常に強かったのです。

そのいとこは、それ以上多くを語ることはありませんでした。

多くの謎が残ります。

なぜベトナムへ帰ることを頑なに拒んだのか。

なぜベトナム語を話せないふりをしていたのか。

フランス帰国後の悪夢はなんだったのか。

ベトナムを去る時、何があったのか。

当時、祖母の兄は病気で寝たきりでうまく話せない状態でした。

ある日急に、旦那に対し、フランス語で必死に泣きながら話しかけてきました。

「君のおばあちゃんに、本当にすまなかったと伝えてくれ。俺は後悔している」

その言葉を残し、天に逝ってしまいました。

謎は深まるばかり。今祖母のことを詳しく知るのは、年老いた彼女のいとこのみ。彼女は他のベトナムの家族と距離を置き、一人でひっそり暮らしています。

旦那も、旦那の母も、本当のことが知りたいと強く思っています。残された時間はあと少し。また、家族で祖母のいとこを訪れる予定です。

また何かわかりましたら、アップデートします。

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AIKO

バブル崩壊後の経済停滞期“失われた20年”の、1990年6月4日に、青森県三戸町で生まれる。大学時代に訪れた母の祖国、フィリピンの経済成長に衝撃を受けたことをきっかけに、東南アジアに興味を持つようになる。大学時代、フィリピンでの不動産マーケティングを研究し、卒業後に日本の不動産を香港、台湾、シンガポールに販売する会社に勤務する。2015年、初めて訪れたベトナム・ダナンで、リゾート大国へ成長するポテンシャルを感じ、移住を決意。2018年3月、フランス人の夫と共にダナンへ移り住む。現在は、オフィスや住宅の建物・不動産管理、コンドミニアム売買仲介、海外企業の法人設立支援の会社に勤務している。

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