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2019.07.04

♯連載

【新社会人へのエール】“フーテンの寅”がブラック銀行で学んだこと《番外編その3》

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今回は4月25日号5月16日号で掲載した、梅沢励さんの人気コラム「6つの“家”を持つ“現代版フーテンの寅”が伝授する『多地域居住ライフ』のススメ」の番外編のつづきをお届けする。日米に家を持つ自由な暮らしの達人、励さんという人間を作るのに影響した銀行員時代の話をもとに、“現代版フーテンの寅”を解剖していく。

梅沢励

日本に2つ、アメリカに4つ、合計6つの家を持ち、4台のマイカーを乗りこなして自由な移動を繰り返す“現代版フーテンの寅”こと、梅沢励さん。東京、千葉、マイアミ(フロリダ州)、オーランド(フロリダ州)、ジャクソンビル(フロリダ州)、アトランタ(ジョージア州)を行き来する「多地域居住」の暮らしは、今年で16年目に突入した。5年前、グリーンカード(永住権)を手に入れ、生涯アメリカ居住を宣言。オンラインアパレルショップで生計を立てながら、週末は、アメリカ国内の催事場で日本から運んだ飴玉やグミ、チョコレートを売りさばく気ままな暮らしを楽しんでいる。

ルールの中で勝負に勝っても意味がない

出世する社会人ほど、得点を取るのがうまい。学校教育をそうやって乗り越えてきている。だからそういう人は、その延長に仕事があり、仕事の得点も重ねていく。そういうゲームには強いだろうけれど、僕にとってはまるで信頼がおけない人に見える。

人生は勝つだけのゲームじゃない。ゲームに勝って喜んでいても仕方ない。銀行員時代は、銀行が決めたルールでゲームをしても、喜ぶのは銀行だけで、お客さんじゃないし従業員でもなかった。

ルールが変わればルールが変わったゲームで遊ぶだけで、そこに信念を感じない。時にルールを逸脱しても我を通す、そういう人の方が人望が厚かったと思う。

例えば、クリントイーストウッドの映画ではいつもそうやって法外の行動で人の芯を見せる。まさに『ダーティハリー』の主人公、ハリー刑事だ。人間には、我を通さなくてはいけない瞬間が人生で何度もやってくる。「その時、お前は行動できるか?」。それが人生で得られるものだと思う。

『15時17分、パリ行き』という映画を見ると良くわかる。行動するべき時に体が動くか?!その一瞬の為に日々努力するのだ。

銀行では、薄っぺらな銀行員の人生が見えて残念だった。常に上司は尊敬されるわけじゃない。しかし、彼らは部下から慕われ、尊敬されなければ、リーダーになんてなってはいけないのだ。

「銀行は雨の日に傘を貸さずに、晴れの日に傘を貸す」

これは企業が資金に困った時、銀行はお金を貸してはくれず、企業の資金に余裕がある時にしか銀行はお金を貸しに来ることはない、と揶揄したものだ。

それは間違えていると思ったから、僕は雨の日にもちゃんと傘を貸した。すると、お返しに靴下とかお菓子とかが返ってきた。なんだか嬉しかった。

自分勝手な人がいて、上司の視線ばかりを気にして生きている人がいた。頭が良いのに残念でならない。そう思える人が何人もいた。社会というゲームに強いだけ。「銀行っていうのは数字じゃなくて人を見てお金を貸すんだ」って先輩からは言われていたけど、数字しか見ていない人が本当に多かった。

お金を貸し出してもプラスポイントは少ない。保険を売るとポイントが高い。不動産情報を斡旋するとポイントがもらえる、、、、そんな当期のルールを見ながら営業先を考えている上司が情けなかった。

お客さんは目の前にいる人間だ。銀行が今期決めたルールで動けば、自分の売りたいものだけ売りに行く。お客さんのことなんて見ていない。そうやってまた銀行は揶揄される。馬鹿にされているのが分からないのだろうか…。

次世代に学んだことを伝えていきたい

上司や先輩からは、銀行を辞めた現在に至っても沢山のことを教えてもらっている。

仕事だけではなく人生についても教えてくれる。

銀行を辞める時、怒られることもあった。「しがみついて一生懸命やりなさい」というアドバイスをくれた方もいたし、「自分の道を信じてやりなさい」とアドバイスをくれた方もいた。「辞めた後も毎年報告をしに来るように、元気な顔を見せに来るように」と常に言われ続けた。

銀行に居たのは3年半、特定の上司先輩と一緒に仕事をしたのはほんの1年程度でしかなかったけれど、銀行を辞めて16年、いまだに上司であり先輩であり続けてくれる方がいる。

彼らもまた次世代に何かを伝えるということを行っているのだと思っている。だから彼らから学んだことを次世代に伝えようと僕も必死になれる。

こんな大人には絶対にならないぞ

銀行員時代に母校が甲子園に出場した。創設以来2度目だ。1度目は20年も前の話らしい。そして、2度目は僕が銀行員2年目の時だった。

野球に興味はない。しかし、自分の母校が甲子園に出ているなんて…支店でもすでに一部で話題になっていた。

土曜日は準々決勝。同級生と一緒に野球を見た。勝った!準決勝は日曜日だ!早速、土曜日の夜に車で甲子園まで出かけた。なんと、日曜日の準決勝でも勝ってしまった!

決勝戦は月曜日!同級生は会社に電話をかけて休みにしていた。しかし僕は…銀行が休める訳がない…先輩に連絡をいれて、助言を仰いだ。

「やらなきゃいけないことはあるのか?」と言うので、僕はやらねばならないことをメールで伝達して、その後、電話で課長に休みの許可をもらった。

残念ながら決勝では負けてしまい、準優勝だったけれど、それでも快挙に喜んでいた。歓喜に包まれたまま東京に戻ったのは火曜日朝6時だった。そこから一睡もせずに会社に行った。ぐったりしていたのを見た同僚は「負けて残念だったね」と声をかけてきた。

残念なんて全く思ってない。喜び叫び、疲れて、そして寝ていないからぐったりしているだけだ。

副支店長に呼ばれた。「甲子園程度の理由で会社を休んだことを反省しているか」と聞かれ、「会社を休んだことは反省しているが、甲子園に行ったことは全く『後悔』はしていないです」ときっぱり答えた。

こっちは疲れているんだ、許可をもらった休みに対して何故いちいち言われなきゃいけないんだ…とイライラした。

(あなたの母校は弱いから甲子園に行けることの意味が分からないんだ!悔しかったら母校が甲子園に行く経験をしてみろ!と心で思ってもぐっと我慢した。疲れていたので、そんな馬鹿らしい話をする元気はなかった)

休みを許可してくれた課長がヘコヘコしながら副支店長の後から出てきて、「良く席があったと思え」と言ってきた。馬鹿らしくて、無視した。なんて肝っ玉が小さいんだ。

部下が甲子園に母校の応援をしに行くなんて、めったにあることじゃない。どうして一緒になって喜べないのだろうか。この日、こんな大人にはならないぞと心に決めた。銀行員という存在が憧れの人には見えなくなっていた。

銀行を辞めた後で…

銀行時代に出会った人たちが、僕の人生に大きな影響を与えたのは間違いない。

お客さんや上司…しかし時に反面教師だった人たちもいた。みんなそれぞれ社会で成功している人たちだから、いいことも悪いことも大きく影響を与えてくれたのだと思う。

一生懸命学校で勉強して、いい成績を取り、いい大学に入って、いい就職先を見つけて、そこで一生働くんだ。そういう昭和の典型的な教育を受けて、それに向かって一生懸命に取り組んできた僕にとって、会社を辞めるということは、それまでやってきたことの否定だったから、とても大きな決断だったと思う。

その決断ができて、吹っ切れたのは確かだと思う。リミッターが取れた感じ。

銀行を辞めた今では、いくらでも速度は出るが、自分でコントロールしないと暴走し事故になる。リミッターはもうないのだから。

(梅沢励)

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