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2020.02.06

♯町おこし

10年越しの願い叶えた奄美大島移住物語

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2020年夏に世界自然遺産登録を目指す奄美大島

 ──すごく風が気持ちいいですね

「そうですね、今日は朝少し寒かったんですけど、ここは風がちょうどよく抜けるので、比較的集落の中では涼しいほうなんです。山沿いでもありますし」

 ──神奈川からの移住者だとか?

「3年前の2016年、34歳の時にこちらにきました。妻と3歳の息子と3人で暮らしています。もうすぐ2人目が生まれます」

1年近く前になるが、2019年4月7日、奄美大島に住む村上裕希さんを訪ねた。村上さんは神奈川県の移住者だ。その二日前に訪問した龍郷町の町役場で、町議会議員の圓山和昭さんに「面白い人がいるんですよ」と紹介されたのがきっかけだった。

神奈川育ちの村上さんが奄美大島に来るまで

村上さんは、昭和57年6月、母親の出身地である奈良県で生まれた。姉と村上さんのふたり姉弟。育ったのは神奈川県横浜市で、25年以上を過ごした。現在(2019年4月)は、家族3人で、縦に長い奄美大島の真ん中あたり、大島郡龍郷町の秋名という集落に住んでいる。妻・真弓さんも東京生まれ東京育ち。二人目をお腹に宿している。

地縁や親戚もない奄美に魅せられたのは、結婚前二人で初めて旅した先がこの島だった時から。2009年に初来島して以来、休みが取れると二人して奄美へ通った。2011年、奄美大島で挙式。2015年に長男が誕生した。数年に渡り、東京・奄美の行き来を繰り返す中で、徐々に「また行きたい」から「住みたい」に変化。2016年、島から東京へ帰る飛行機の中で、「地域おこし協力隊」のメンバーを龍郷町が募集をしていることを知り、すぐさま応募したことが奄美大島移住の出発点となった。

 ──移住前は大手のシステム会社に勤務していたそうですね。地方創生や地域おこしには昔から興味があった?

実は、サラリーマン時代は地方創生とか全く興味がなかったんです。ボランティアとかもやったことなかったですし、田舎暮らしに多少の興味があった程度。考えるようになったのは協力隊の仕事に携わってからです。自分は何ができるのだろうかとか、今の日本の問題は何で、地方の問題は何かといったことを少しずつ考えるようになっていきました。協力隊としての移住者は僕が一人目だったこともあって、役場も最初はどう受け入れようか試行錯誤だったみたいです。

「地域おこし協力隊」に入ろうと思ったのは、奄美大島に住むという目的を達成するための手段でした。丸腰でよそ者が島に住むことを考えた時、あまりにもハードルが高いでしょう。真剣に移住を考えた時、一番ネックになるのは、仕事と家です。協力隊に入ることで、まずはこの二つを得られます。3年間という上限はあったとしても、その3年間で地域とのつながりをつくって、その後の仕事に生かそうと思ったのです。

「地域おこし協力隊」とは?(総務省HPより抜粋)
○制度概要:都市地域から過疎地域等の条件不利地域に住民票を移動し、生活の拠点を移した者を、地方公共団体が「地域おこし 協力隊員」として委嘱。隊員は、一定期間、地域に居住して、地域ブランドや地場産品の開発・販売・PR等の地域おこしの支援や、 農林水産業への従事、住民の生活支援などの「地域協力活動」を行いながら、その地域への定住・定着を図る取組。
○実施主体:地方公共団体
○活動期間:概ね1年以上3年以下
○地方財政措置:
◎地域おこし協力隊取組自治体に対し、概ね次に掲げる経費について、特別交付税措置
①地域おこし協力隊員の活動に要する経費:隊員1人あたり400万円上限
(報償費等200万円〔※〕、その他の経費(活動旅費、作業道具等の消耗品費、関係者間の調整などに要する事務的な経費、定住に向けた研修等の経費など)200万円)
※平成27年度から、隊員のスキルや地理的条件等を考慮した上で最大250万円まで支給可能とするよう弾力化することとしている(隊員1人当たり400万円の上限は変更しない)
②地域おこし協力隊員等の起業・事業承継に要する経費:最終年次又は任期終了翌年の起業する者又は事業を引き継ぐ者1人あたり100万円上限
③-1:地域おこし協力隊員の募集等に要する経費:1団体あたり200万円上限
③-2:「おためし地域おこし協力隊」に要する経費:1団体あたり100万円上限
◎都道府県が実施する地域おこし協力隊等を対象とする研修等に要する経費について、普通交付税措置(平成28年度から)

村上さんは、秋名の空き家を借りて住んでいる。築年数は推定70〜80年。お世辞にも立派とは言えない古びた一軒家だ。そのすぐそばで運営するのが、シマ宿「GAMA屋」(がまや )。奄美では集落のことを「シマ」と呼び、シマ宿は、集落の中にあり、現地の暮らしをそのまま体験できる宿だ。村上さんは地域おこし協力隊の仕事をしながら、自ら代表理事となって一般社団法人E’more秋名(いもーれあきな)を設立。シマ宿を作り運営している。


「GAMA屋」の前で

 ──E’more秋名の活動内容を教えてください

E’more秋名を立ち上げたのは、2018年11月です。理事は、私と地元の女性二人、監事の男性一人、その他、設立発起人ということで、11名の社員(いわゆる正会員)がいます。実際はまだ給与というのは出ずに活動していますが、「先人が守ってきた秋名・幾里集落の自然、文化、豊かな暮らしぶりを将来の世代に引き継ぎ、明るい集落が将来に渡って存続し続けるための地域課題解決に寄与する」というミッションのもと、様々なことを協議しながら活動しています。GAMA屋については、元々空き家だった家を、地元の方々が所有者の方と話をしてくださり、借り受ける形となりました。宿泊者は、今のところ日本人が中心。今の段階ではインバウンドに積極的に発信して行くというよりも、活動理念に掲げた「私たちは、秋名・幾里の活性化のために若者を呼び込み、賑やかな集落作りに貢献します」に基づき、若い人たちがシマに興味を持ってもらえるような場にしていきたいと考えています。

シマ宿は簡易宿泊所として許可を得ている。自らも移住前何度も奄美に来ては、旅行者として暮らしを楽しんだ。その経験からもシマのありのままの暮らしを体験できる宿泊の場を増やしていきたいのだと村上さんは語る。


風の通り道

 ──どんな方が利用されているのでしょうか。

つい昨日チェックアウトされた方は、7泊の滞在でした。平均すると2.5泊ぐらい。お子様連れが多いですね。海に行く方も多いけれど、山での遊びを楽しみに来られる方もいます。ホテルよりは広々と寝られていいね、子供を放っておいても安心、とよく言われます。

「GAMA屋」に続く、2軒目「どぅぬ家」(意味:わたしの家)もオープン間近だ。こちらも元々は空き家だった古い一軒家。改修中は次から次に問題が発生したが、毎日のように現場へ通い、リフォームを委託した職人と共に、相談を重ねながら作りあげていった。


穏やかな時間が流れる

 ──シマ宿を作り、運営する理由は?

UターンとかIターンで帰ってくる人とかの住む場所を作りたいと考えています。奄美の場合、住める空き家自体がかなり少ないんです。住んでみても、結局改修しなきゃいけないということがよくあります。大家さんとしては改修して受け入れようにも、家賃相場がこの辺りだと大体2万円。高くても3万円。管理費なんてもちろんありません。そうなってしまうと、大家業がボランティアみたいになってしまうんです。年間二十数万ぐらいの収入で建物を維持し修繕もしていくのはかなり厳しい。ですから空き家の改修なんてやめてしまおうとなってしまう。浄化槽を入れるにも、町の補助があるのですが、それでも配管やトイレを付けたりすれば30~40万円はかかりますから。とりわけ下水道がない龍郷町では、ぼっとんトイレも多く、Uターン、Iターンの方々にはネックになります。

逆に、上水道はきちんと整備されていますから、水は豊富。貯水してくれる山がいっぱいあるので地下水もどんどん湧き出てきます。島の中でも水が特に豊かなのがこの秋名地区。だからお米の豊作を祝う「ショチョガマ」という伝統行事は450年以上も続いていて、国の重要無形民俗文化財に指定されているくらいです。

旅行者の方々に、ゆくゆくは移住してほしいと強制することはできないけれど、島を好きになり興味を持ってもらえることが僕たちの願い。ですから、できるだけそういう未来につながるようなスタート地点として、シマ宿を維持していけたらと思っています。


行政としても「定住」を成長戦略として位置付け

 ──移住前、奄美大島に9年間通ったということでしたが、どうやって地元に馴染んでいったのでしょうか。

僕がサーフボードを持ってたら、宿泊先のフロントの方が、サーフィンやるんだったら明日の朝一緒に行きませんかって声を掛けてきてくれました。それで翌朝行くと、その方が知り合いを連れてきていて、そこからまた広がってという感じです。地元のツアーにもよく参加しました。そしたら、ガイドさんと仲良くなって、またそこから広がってという。こちらとしては奄美のファンなので、知り合った人とはすぐにつながりを持ちたくて積極的に連絡を取ったり、島に来るたびに会いに行ったり、年賀状を出したり。そんな風にして輪が広がっていきました。


龍郷町はサーフィンスポットとしても有名

 ──都会での生活が長いと、こちらでの人の繋がりの濃さが負担に思えることはなかったですか。

僕の場合、秋名の方々が本当に温かくて住み心地が良くて。これだけ外から来た自分たちのことを受け入れてくれるんだから、もっと地域と関わりたいと思って、行事にも関わるようになりました。話を聞くと地域の方々も苦労しながらやっている部分もある。だから、行事に関しても行けるときは行くというスタンスで、そこは地元の皆さんも同じなのかなと思います。

 ──移住経験者として、移住の相談を受けることも多いのでは?

ガイドブックに載せていただいてから、移住相談で来られる方も増えました。中には景色のいい所で別荘のような家を建てて、悠々自適にひっそりと暮らしたい言われる方もいらっしゃいます。ただそういう方だと、奄美の暮らしは少し難しいのかなと思います。自分で自分のことができる間は成立しますが、老後のことを考えたら地域とつながりを持っているほうが安心。孤立した場所で住むというのは、なかなかやっぱり難しいものがあります。病院はあるけれど、遠い。年を取れば運転もできなくなるでしょう。台風の後などはみんなで被害調査をするんですけど、その時にその被害調査に対象として認識される家にならなければ何かあっても気付かれないのです。


龍郷町の企画観光課が発行するガイドブック

 ──自然環境が近いというのは、それだけ不便もあるということですね。将来お子さんたちが大きくなった時、一度は都会に出てほしいといったような気持ちはありますか。

そういう選択肢があってもいいかなと思いますが、強要するつもりもありません。ただ、広く世間を知ってほしいなと思います。奄美の良さも比較対象がないと分からないでしょうし。やっぱり感じてみなければ分からないところもあったりすると思うのです。とは言え、田舎で暮らすほうが将来性はあるよっていうことは、子どもには言うかもしれないですけどね。

 ──田舎で暮らす方が将来性があると言うと?

死ぬ間際の時にどういう状態にあるかっていったときを考えると、おそらく今後、医療格差、介護格差はますます広がっていきますね。要は自分の財力で最期まで自分を面倒見ていかなきゃいけないという世の中になっていくと思うんです。そういう長い目で見た時、地方の方が可能性があるのかなと僕は考えています。都会でマンションに住んでいても隣近所を知りません。自分の力だけで生きていくというのは、よほどの覚悟がなければ難しいんだろうなと思うんです。だけど、奄美では、まだ昔の暮らしぶりというか、地域の一員として暮らしていく良さというのが残っていて、安心して生活できる環境があります。

仕事も都会に比べれば、困難さはありますが、インターネットなど技術革新のおかげで昔よりもハードルが低くなって来ていると思います。最終的にどこで住むかというのは本人次第ですけど、僕としては田舎の方が可能性があると、子どもには助言するかもしれないですね。


島の情報が掲載されている「奄美大島探検図」

 ──これまで「帰りたいな」と思ったときはなかったですか。

それはないです。ですけど、例えば、こういう活動をしていても、必ずしもみんなが応援してくれているわけじゃない。どうやっても信用してもらえない時だってある。けれどそれはどこへ行っても同じ。自分がやるべきことを集中してしっかりやれば、そういう声を不安を感じることもない。逆に色々な意見も聞くべき時は聞く、そんな風に考えています。

 ──方言は大丈夫でしたか?

分からない時も多いけれど、聞くのが楽しい、素晴らしいなと思う。今、地元紙の間で島の言葉をあらためて学び直そうというムード作りが進んでいます。奄美は集落ごとに言葉も少し違う。公立学校の先生も赴任してくると苦労されるみたいです。ただ、子供たちはあっという間に覚えてしまいます。秋名小学校は全校生徒が19人。けれど、1年前は8人だったんです。去年の4月に、転校生と新入生含めて11人増えました。これはすごいことです。UターンとIターンの方々が来てくれたんです。この先、小学生の生徒数は少しずつ増えていく見込みになっていて、ちょうど僕の子どもの世代が小学校に上がる頃には、複式学級が解消されるんじゃないかなという話もあります。これは本当に嬉しいこと。ただ一方で、人が増えるには住む家がなければどうしようもない。そこの解決を僕たちの活動でしていきたいと考えています。地域のブランドが上がって、住んでみたい場所になって、そうやって来てくれた人達が、また新しい血を運んきてくれてまた盛り上がる。長い道のりかもしれないけれど、魅力的な場所になっていくよう貢献できればなあと考えています。


最近の村上さん家族。取材時、お腹にいた子供が生まれて4人家族に。青年団の皆さんから贈られた”オムツケーキ”とパシャリ

(Hello News編集部 吉松こころ)
(取材日:2018年4月7日)

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